よろしかったでしょうか、の普遍性について
飲食店などでの「よろしかったでしょうか?」という表現について、
違和感、嫌悪感を表明される人が多いようです。
かくいう私も、以前はすごく違和感がありました。
でも最近は、「よろしいでしょうか」と言われると、
なんだかぶっきらぼうだなぁ、と感じるようになってしまいました。
認めたくはないけれども、実はそんな感覚をお持ちのかた、
結構多いと思うのですが。
「だめだ、絶対おかしい!」という方に、何がおかしいか尋ねたことは
あまりありませんが、自分の気持ちを振り返ると、
「過去形」が使われていることが一番ひっかかったかな、と思います。
でもそういうことを言うなら、よろしいでしょうか、もおかしい。
でしょう、は、(自分の)推量や未来を表すときに使う言葉です。
客に向かって、「あなたの注文はこれでいいと思うんですがどうですか」
なんて言ったら失礼でしょう。「これでいいですか」と聞くのは
かまいませんが、ウエイター自身の推量が入ったらまずい。
でも、ここでは言葉がすでに本来の意味を失い、受け取る側も、
単によろしいですかを丁寧にしただけだと思っています。
そういうふうに、言葉の意味は変わるものです。
それでも、過去形は許せない、ですか?
そんなみなさまのために、過去形が出てきた理由を探ってみました。
英語でお塩をください、というときには「Pass me the salt!」ではなくて
「Will you pass me the salt?」というと、丁寧な依頼になることは
中学校で習ったと思います。
さらに「Would you pass me the salt?」にすると、もっと丁寧だ、
とも習ったと思います。
未来形を使うと丁寧になり、未来助動詞の過去形を使うともっと丁寧になるわけです。
フランス語を習った方なら、○○したい、というときに、
Je voudrais ○○ と言うのをご存知だと思います。
このvoudraisという活用形は、vouloir(英語のwant)という動詞の
「過去未来」という時制です。
本来は、過去のある時点における未来のことを示すのに使われる活用形を、
今自分がしたいことを丁寧に示すために使うのです。
考えてみるとこれは、英語の
I would like to … にほぼ相当します。
wouldはwillの過去形ですから、まさに「過去未来」の表現です。
さて話を戻して、「よろしかったでしょうか」はどういう構造でしょうか。
これは、「よろしいですか」という直接的な表現に対し、過去形の
「よろしかった」と未来・推量形の「でしょうか」を組み合わせたものです。
そう、やっていることは、英語やフランス語とまったく同じです。
ここには、過去形にすることで直截な感じをなくし、未来・推量形にすることで
不確定な感じにする、という、ユニバーサルな発想パターンが
あるのではないでしょうか。敬語がない言語では、これが丁寧表現の
王道なのです。
敬語が廃れつつある現代の日本語で、このような表現が生まれたのは、
必然と言えましょう。