トッカータとフーガの偽作説について
大バッハの誕生日なので、最近ちょっと調べたことを書いておく。
https://www.youtube.com/watch?v=SGKfqSJbeAg&t=302s
バッハの楽曲で(あるいは、すべてのオルガンの楽曲で)最も有名なのは、トッカータとフーガ・二短調、だと思う。
しかし、これは実はバッハの作品ではないのではないかという疑念が呈されているという。
そう聞いたとき、正直、「ああ、そうかもな」と思った。確かに、バッハの作品としては異質なところが多い気はするのだ。しかし、気がするで偽作認定はできない。何が根拠なのだろうと思ってwikiを見てみた。
日本語のwikiは偽作説について触れているが、印象ではない説明としては、
1 自筆の譜面がない
2 主題が単独で提示されるオルガンフーガは他にない
3 短調の変終止で終わるオルガンフーガは他にない
の3点が上げられている。
が、1については他にもそういう曲はあるので、これだけでは断定はできないだろう。
2 は意味がわからない。バッハのオルガンフーガは普通最初に主題が提示されているからだ。
3 は、Ⅳの和音からⅠの和音に移って終わる「変終止」というやりかたが、他にないということらしい。確かに有名どころの短調のオルガンフーガ(542、543、548、582など)は、どれもⅤ→Ⅰの完全終止という形を取っている。けど、h変終止はそんなに珍しい終わり方でもないので、これをもって偽作というのもちょっといいがかりのような気がする。
さて、2の意味がわからないのは、ひょっとすると英語のwikiを訳したときに何かが失われたのではないかと思い、英語版を見たら、そこにはもっとたくさん理由がかかれていた。
うち、
2’ 主題がペダルで単独で提示されるオルガンフーガは他にない
たぶんこの「ペダルで」が、日本語版wikiでは落ちているようである。上記youtubeの6分2秒あたりがこれに該当する。確かに、ペダルで主題を弾くことはあっても、単独のものはすぐには思いつかない。とはいえ、フーガではなくファンタジアの部分であれば、ペダル単独で主題が出てくることはある。たとえばBWV543の1分36秒。https://www.youtube.com/watch?v=Pfnkz1cFp8g フーガでこれをやったらバッハではないというのもどうなのか。
英語版にはこんな指摘もあった。
4 4度上で応答するオルガンフーガは他にない。
https://www.youtube.com/watch?v=SGKfqSJbeAg で、2分40秒から提示される主題に対し、2分45秒からの応答部が、4度上であることについての指摘だ。確かに他のフーガは、5度上か4度下のことが多いようだ。本当に他に1つも4度上での応答がないのなら、バッハらしくない、とは言えるかもしれないが、この主題では4度上の応答がよいと判断したなら、そうしてはいけないという類いのものでもないようにも思う。
5 86~90小節のトリル
5分1秒からのトリル(の長さ)が他にあまり例がないと言いたいようだ。オルガンでは、キーを押していればその間じゅう音が出るので、チェンバロやピアノようにトリルで音を実質的に伸ばす、みたいなことをする必要がないのと、オルガンでトリルを長時間続けるとだいぶうるさい感じになるので、確かにあまり例はない気はする。とはいえ、名曲BWV542 https://www.youtube.com/watch?v=tg50ozbZcqM&t=350s の9分30秒では1小節のトリルをかけたりもしていて、効果があると見ればトリルも使っていることがわかる。
6 最低オクターブのC#の音を使っている
2小節目の左手で、中央のドから2オクターブ下のC#の音が出てきているのがおかしい、という指摘。パイプオルガンは低音になるほど、長く太い、巨大なパイプが必要になる(音程はパイプの長さに反比例するので)。C#の音は、Cの次にたくさんの資源を必要とするが、Cに比べると、どうしてもないと困る曲は少ないので、当時のオルガンは、最低オクターブのC#,D#,F#,G#を省略することが少なくなかった。そんな音をいきなり平気で使っているのは、C#のパイプが普通に備えられるようになった後世の作曲であることを示している、という趣旨だろう。バッハの曲でもこの音の使用例はごく例外的とある。
作曲のスタイルというよりは、物理的な側面からの指摘であり、一定の説得力は感じる。
しかし、この音が出てくるのは実は2小節目だけで、以後は出てこない。また、この音が手鍵盤で演奏されている点も注目したい。
というのは、最低音のC#といっても、コストが問題になるのは、16フィートとか32フィートといった、低音の音色のパイプであって、8フィート以上であれば、ことはそれほど深刻ではないのだ。また、特徴的な16フィートの音がアサインされるのは通常ペダル鍵盤であって、手鍵盤には16フィートの音はアサインされないか、されても、subbassのような、低音を補う、くらいのソフトな音色のことが多いように思う。要するに、この最初の2小節で、手鍵盤で8フィート以上の音色しか選択しておらず、かつ、8フィート以上の音色については最低オクターブのC#(など)が装備されているのであれば、このC#を使うことによる問題(音の抜け)はないのではないか。これはもう少し実際の過去のオルガンの実装を見ないと説得力のある意見にはならないが…。
長くなった。そういうわけで、英語版wikiにたくさん書かれていた偽作の根拠は、意外にもどれも、決定的にはほど遠いものであった。最初私は「偽作かもな」と思っていたのだが、偽作説の論拠を見て、逆にこれは偽作じゃなくて、以前言われていたように、バッハが若いころに、北ドイツ風のオルガンの影響を強く受けて作った作品ではないか、という説のほうがしっくりくるように感じている。