恐れの木曜日
子どものころ、木曜日が怖かった。こんな詩を読んだからだ。
大地と大気は冷えていく。大きな水もいっしょに
恐れの木曜日が訪れるとき
そしてもう晴れることはなくなる
4つの場所からそれらは広がり、その日は胸に刻まれる日となろう
(五島勉訳、百詩編10巻の71)
そういえば、先週の木曜日からずっと晴れた日がない、まさか恐れの木曜日が訪れたのでは…と恐れおののいたことも1度ではない。私が育った福岡県の田舎は、冬は本当に晴れることが少なく、びくびくしながらすごしたものだ。
ところが、大人になって、他の人の訳を見る機会があったのだが、そこには「恐れの木曜日」の言葉はなかった。2,3行目は、
彼は木曜日に礼拝にやってくるとき
いまだかつてそのように美しいことはなく
となっていたのである。どういうことだろう。
原文はこうだ。
La terre & l’air geleront si grand eau.
Lors qu’on viendra pour Ieudy venerer;
Ce qui sera jamais ne feut si beau,
Des quatre parts le viendront honorer.
私の直訳
大地と大気はとても大きな水を凍らせる。
人々が木曜日を崇拝しに訪れるとき、
それがそれほどまでに美しかったことはないだろう。
四方からそれを称えに来るだろう
全体的に意味は不明瞭だが、少なくとも「恐れの木曜日」と訳せる部分はどこにもない。3行目も、Ce qui sera jamais si beauなら、「そしてもう晴れることはなくなる」の訳もありかもしれないが、間のne fut(過去においては…でなかった)を考えると、逆の意味にしか取れない。
要するに、読者を怖がらせようと、恣意的や訳もどきをしていた著者にひっかけられていたわけで、なんとも拍子抜けするが、まあ、子どもの頃に読んだ本って、こういう大きなインパクトを与えることがあるよね。
こうして無事、恐れの木曜日からは解き放たれた私だが、実は心は晴れ晴れとはしていない。
心理学者の中村恵一先生は、3行目を「存在するものがいまだかつてそれほど美しかったことはない」と訳されている。
意図的な誤訳の「晴れることはなくなる」とは正反対の、きわめてポジティブな言葉だが、読んだ印象はどうだろうか。この、あとは落ちるしかない成就感、躍動を感じない静止感……薄気味の悪さが同じくらいなのはなぜなのだろう……。